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Kaakaの世界/ウォーキング
Kaakaの世界/ウォーキング/栃木県 滝尾道で歩く『 もうひとつの日光』 中編(2011.10.29)

 滝尾の路 前編は ここをクリック してご覧下さい。

 滝尾の路 前編は、開山堂勝道上人の墓までの紹介でした。
この中編は、その先から始まる石畳の古道「滝尾道」を紹介します。
なお、このページの中では、開山堂から始まる石畳の古道を「滝尾道」と標記し、今回のフォーキングコース全体を言い表す時は「滝尾の路」と標記しています。

北野神社 6. 北野神社 〜 大小べんきんぜいの碑

 9時43分 学問の神様 菅原道真を祀る 北野神社に到着。
鳥居や祠の奥の巨岩に天満宮の梅鉢紋が見られる。また、巨岩には、寛文元年(1661年)に勧請したものと刻まれている。
     ※ 勧請(かんじょう):分霊を他の神社に移して鎮祭すること
手掛石  9時47分 手掛石

 昔、滝尾神社の女神、田心姫命(たごりひめのみこと)が、お手を掛けたと伝えられることから「手掛石」と呼ばれている。北野神社に詣でた後、この石を欠いて持ち帰り、神棚に供えると、字が上達するという信仰があったが、手を掛けて祈っても良い。
手掛石  9時50分 神馬の碑

 慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦いの折り、徳川家康が乗った名馬の碑。家康が無くなった後も、14年間、東照宮に御神馬(ごしんめ)として奉仕した。
昌源杉  昌源杉

 滝尾参道の周辺には、500年以上の老杉群がある。文明8年(1478年)日光山第四十四世別当になった昌源が、山中に数万本の松と杉を植えたもので、中世繁栄期の遺産であり「昌源杉」(しょうげんすぎ)と呼ばれる。
大小べんきんぜいの碑  9時58分 大小べんきんぜいの碑

 参道途中、行者堂への分岐点に 石の標注 が建っていたが、写真を撮るのを忘れてしまった。
古くは、このあたりに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居等があり、これから先は滝尾 神社の聖域に入るので大小便を禁ずる碑が立てられた。
庶民にも読めるようにと、大小便禁制のうち大小のほかは、平仮名で書かれているのが珍しい。
白糸の滝 7. 白糸の滝〜 運試しの鳥居

 10時3分 白糸の滝

 滝尾神社の石段手前、左奥の天狗沢にかかる高さ10mの小滝。弘法大師修行の場と伝えられている。文明18年(1486)9月、京都聖護院の門主が日光を訪れ時に書いた紀行文「廻国雑記」に和歌が詠まれている。
    世々を経て 結ぶ契りの 末なれや 
    この滝尾の たきの白糸
別所跡
 別所跡

 東照宮の暦座以前、日光参詣の中心はこの滝尾周辺であった。明治になって別所は廃止。
永正6年(1509)日光に来た連歌師、宗長の紀行文『東路の津登』に、
    「ここより谷々を見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」
とあり、滝尾周辺が日光山一の聖域として栄えた様を伝える。
   ※ 別所:仏教寺院の本拠地を離れた所に営まれた宗教施設
影向石
 影向石(ようごうせき)

 影向とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。
 弘法大師(空海)が、弘仁11年(820)この地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。
鳥居の額束 運試しの鳥居  運試しの鳥居

 元禄9年(1698)(元禄二年(1689)という説もある)に、三代将軍家光の忠臣、梶定良が奉納したもので、鳥居の額束(がくづか、中央の縦の部分)の丸い穴に小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試したという。御影石、明神造り。
 KaakaとChanが挑戦したところ、Kaakaが1回成功しました。

8. 滝尾神社(たきおのじんじゃ 重要文化財)

拝殿 滝尾神社  10時13分 滝尾神社桜門
 滝尾神社は、日光二荒山神社の別宮。本宮、新宮(現在の二荒山神社)とともに日光三社権現の一つである。女峰山の女神、田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る。  引仁11年(820)弘法大師が創建したと伝えられる。明治4年の神仏分離までは楼門に大師の筆といわれる「女体中宮」(にょたいちゅうぐう)の額が掲げられ、仁王像が安置されていたという。正保3年(1646)の建立。4月の弥生祭の時には、二荒山神社から滝尾の神輿が渡御(とぎょ)する。
 最初にあるのは 赤い桜門 である。桜門をくぐるとすぐに拝殿がある(右端の写真)。

本殿唐門   唐門 本殿

 唐門は二脚平唐門、総漆塗り、極彩色(写真の右手にある黒っぽい門)。

 本殿は三間社流れ造り。この建物は、正徳3年(1713)建て替えられたもので周りの玉垣、石畳もその時設けられた。御神体山の女峰山を遥かに拝むように本殿の裏壁には扉がつけられた造りになっており、全国でもたいへん珍しい。
笹  縁結びの笹

 唐門の左手には、男女が互いに、片手の親指と小指のみを使い笹の葉を結べると、縁が結ばれ結婚できるといわれている。
 現在は、笹の保護、育成の為結ぶことは出来ないが、片手の親指と小指のみを使いおみくじを笹に結べば良縁に巡り合えるという言い伝えがある。
滝尾神社稲荷
 滝尾稲荷神社

 縁結びの笹から左奥に進むと、滝尾稲荷神社がある。弘法大師により滝尾神社とともに創建されたが、現在のものは昭和45年の再建。昔、滝尾上人がお供えを忘れた時、稲荷の神が化けて出て、催促したという。
無念橋  無念橋。俗称、願い橋。

 三本杉を通して、神体山「女峰山」を遥拝(ようはい)するため、自分の身を清め俗界と縁を切ることを意味する橋であったが、いつの頃からか、自分の歳の歩数で渡ると、女峰山山頂奥宮まで健脚で登ったことになり、願いがかなえられると言われるようになり「願い橋」と呼ばれるようになった。
三本杉  三本杉 (神木)

 弘法大師が、この山で修行をした時に田心姫命が現れた場所と伝えられている。
初代の杉は1699年、1747年、1749年と相次いで倒れ、現在の木は二代目である。倒れた神木は、そのままにしておく習わしで、今も横たわっている。
 この神木の霊験をしめす話があり、寛文7年(1667)鶏頭院山舜(けいとういんさんしゅん?)の下僕が神木を見て「なんと小さい神木だ」と馬鹿にした途端、神罰によって口がきけなくなってしまったという。
酒の泉  酒の泉

 本宮の清水(昭和24年の今市地震で消失)、薬師の霊水とともに日光の三霊水の一つ。弘法大師が、この泉を汲んで神に捧げたといわれる。
 この御供水には、酒の味があるといわれ、持ち帰って元水として酒を造ると、良酒ができるという。醸造家の崇敬が厚く、古くから栃木県内の酒造家たちで酒泉講が結成され、秋に祈醸祭、春に報醸祭が行われる。現在は、西神苑の「二荒霊泉」で行われる。
   ※ 御供水(ごくうすい):神仏に供える水。
      祈醸祭(きじょうさい):新酒の仕込みが始まるシーズンを前に(10月下旬に)、この水を日本酒、
                味噌、醤油などの醸造業者に分け与え、醸造繁栄を祈願し行われます。
                現在は二荒山神社境内の『二荒霊泉』の水を種水として行われる。
      報醸祭(ほうじょうさい) :栃木県内の酒造・味噌・醤油関係者が参列して行われる豊醸感謝の祭。
                現在は、二荒山神社境内の『二荒霊泉』で行われる。
子種石
 10時23分 子種石

 古くは、子種権現といわれた。子供が授かるように、また安産でありますようにと、この霊石に祈れば霊験があるというので、今日でも参拝者が多い。

分岐 9. 行者堂 〜 空烟地蔵

 10時35分 滝尾神社を後に滝尾道を戻り 神橋方面・二荒山神社方面 への分岐に到着。
ここを右折して、二荒山神社方面に階段を登ることとなる。
女峰山登山口 行者堂  10時40分 行者堂

 輪王寺行者堂は、修験者の修行場として建てられた切妻造りの簡素な建物である。当堂の創建は平安時代、山獄信仰の盛んな頃と思われるが、現在の建物は輪王寺明細帳によると天正3年(1575)桜本坊宗安再興と伝えられている。中には、役小角と前鬼・後鬼を配している。
     ※ 役小角(えんのおづの、634年-701年伝)は、飛鳥時代から
           奈良時代の呪術者である。
        前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)は、修験道の開祖である役小角が
           従えていたとされる夫婦の鬼。
           前鬼が夫、後鬼が妻である。
 なお、行者堂は、女峰山登山口のようです。ただし、ここらか山頂までの標高差は1700mあり、心して登って下さい。
空烟地蔵
 10時56分 空烟地蔵 (くうえんじぞう)

 神護景雲(じんごけいうん)元年(767)4月、勝道上人が男体山に登ろうと四本竜寺を出てこの辺にさしかかったが、春遅い奥山のことで、残雪もあり、暗い森が続いていて上人一行は道を探していた時、前方の岩に地蔵尊が現れ「大いに勇気を出して山を拓きなさい」と励ましたといわれる場所。
 その800年後、延宝年間(1675年頃)家光の忠臣、老中阿部豊後守忠秋の墓を家光の霊廟の一角に造った際、上人の伝えを聞いた阿部家が、石像と常夜灯を建造した。忠秋の墓は、この地蔵と背中合わせの大猷院にあるが、忠秋が空烟と号したので、 空烟地蔵と呼ばれる。
    ※ 阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみただあき):9歳の時家光公の近侍となり、寛永十四年(1637)下野壬生城(五万石)に封ぜられ、
           寛永十六年(1639)には武蔵忍城に移り八万石に進んだ。
           寛永年中に老中となり従四位下に叙せられた。延宝三年(1675)5月、74歳でこの世を去る。
    ※ 大猷院(たいゆういん ):徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ=墓所)です。

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