KaakaChan's World(Chanの某国滞在記)/娘娘廟(興国寺)を見て裏山を周遊 後編(2014.09.08)
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○ 2014年9月8日(月曜) 今日は法定休日の「中秋節」です。
7時35分 マンションを出発。目指すは、ゴルフ場の先にあるという大きな寺院。
8時25分 寺院の近くの駐車場に到着。ここは「娘娘廟」と言われている寺院のようです。
”子授けや出産”、”母乳が出るように”、”眼病を治してくれる”、”天然痘を治してくれる”、”幼児の魂を入れ換える”、”発財や出世・長寿をつかさどる”などをまつった娘娘廟(niang niang miao)は、子宝に恵まれるとして信仰をあつめているとの紹介記事を見つけました。
さて、このように「娘娘廟」とは別名であり、「興国寺」というのが本来の名称で、日本の高僧「円仁」(慈覚大師(じかくだいし)ともいう。)が838年に訪れたという寺です。
山門をくぐると、正面に「大雄宝殿」がありました。
そして、左手には「衆神殿」、その裏には「孝婦殿」。右手には「三佛殿」、その裏には「○堂」があった。「○」は日本にない漢字。
更に、左手の「孝婦殿」の先には「慈孝堂」があり、並ぶようにその先に「孝文化展示室」があった。
さて、山門と並んで、左手に「漢東海孝婦○」という建物があった。
中国の六朝時代(222年 - 589年)に書かれた奇妙な話:六朝志怪小説(ろくちょうしかいしょうせつ)には、次のように書かれているという Web を見つけました。 一部を紹介します。
漢の時,東海に孝行な嫁がいて、姑を甚だ慎み深く養った。姑は言った「嫁は(長年)私を養うために努力し苦労している。我はもう年老いた。どうして余命を惜しんで、永久に(私への孝行に)年月を重ねさせたいと思うだろうか?(思わない)。とうとう自分で首をつって死んだ。
姑の娘は「嫁が私の母を殺しました」と役所に訴え出た。役人は嫁を収監し,獄につないだ。苛酷な尋問が行われ、孝婦は苦しみに耐え切れず、自分で濡れ衣を認めた。その時、「この嫁は、姑を十余年も養い、その孝行は知れ渡っている。きっと姑を殺していない」との上申があったが、その主張に道理があるとは認められずに、・・・後略・・・
8時45分 興国寺のある町「新県街」(xin xian jie)を散策してみました。
前日食べた「ロバの肉」も、この町で食べたのです。
9時38分 前云台山/花果山系の山への登り口を見つけて歩きました。
興国寺の裏山あたりを目指して、南側から近づきましたが、壊れた水路のある先は、個人の家に続く道で、登り口ではありませんでした。仕方なく引き返すことに・・・。
10時5分 今度はBRT(バス高速輸送システム)の走るメイン道路を東へと歩くと、折り返すように山に向かう道を発見。
10時12分 監視カメラを発見。
この場所には「石穴岩画」という看板がありましたが、どこにそれがあるのか全く見当もつかず。
その代りに、近くにはお墓があり、西側の町並みを見ることのできる場所がありました。
10時21分 とりあえず、お墓の近くに確認できた「峰」を目指しました。
10時34分 鶏の鳴き声が聞こえる建物の場所まで来ました。養鶏場でしょうか・・・
近寄って見ると、番犬と思われる犬の鳴き声がするので、その先に足を進めるのを止めた。
少し戻り、朝歩いた町の方面に伸びる道を見つけて下山することにしました。
10時41分 畑を見つけました。途中の山には「国有林に付き、個人の墓を作ることを禁止する」という主旨の看板を見つけましたが、看板はなかったものの「国有林に付き、個人の畑を作ることを禁止する」とでも言われそうな 日本で言う「家庭菜園」のような畑です。
10時43分 コンクリートの扉で閉ざされた洞穴?を発見。
扉に近づくと そこから涼しい風が吹き出していました。
扉の中を覗いてみました。左側を撮った写真、右側を撮った写真をよく見てください。
ストロボの届く範囲で、中を確認できませんでした。抗日戦争の名残でしょうか? それとも使わなくなったワイン蔵でしょうか
10時50分 街に伸びる道を発見、そして既に紹介した 壊れた水路 を右手に見て下山。
10時54分 朝歩いた道まで戻ってきました、その先は「新県街」(xin xian jie)のメイン道路です。
町まで戻ってきたのです。
11時 駐輪場に戻ってきました。
11時55分 今日も無事マンションに戻ることができました。
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