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KaakaChan's World(Kaakaの世界/旅行)
福島県相馬市松川浦~霊山~飯坂でリンゴ買い_前編(2022.12.03-04)

リンゴ買い

 〇 2022年12月3日(土曜)

 今年も、恒例の 福島リンゴ買いの旅です。
松川浦 今回は、相馬市松川浦経由です。

『大小の島や岩が点在する風光明媚な風景は日本三景の松島になぞらえて 「小松島」とも評され日本百景のひとつに数えられ松川浦県立自然公園にも指定されている。春から夏にかけては潮干狩りが、漁港近くの海岸や、浦内最大の島・中州などで行われる。海苔の養殖が盛んで入り江内には数多くの竹竿が垂直に林立している。日本の白砂青松百選の選定も受けている。
 砂州により太平洋と隔てられた南北5 km・東西3 kmの南北に細長い入り江(湾)だが、海水の出入り口は北側にある1908年(明治41年)1月から1910年(明治43年)にかけて掘削されたわずか幅約80 mの水路部分のみであり、太平洋との間の陸地が100 m程度の幅しか無いため、実感としては「海のすぐそばにあるもうひとつの海」である。水路開削以前は砂洲側に河口があったが、潮流の変化や暴風などにより河口が塞がれたり位置がたびたび変わった。』
 出典:Wikipedia
 太平洋と松川浦の間にあるのが「大洲松川浦ライン」です。「大洲松川ライン」とも呼ばれているようだが、ここでは「大洲松川浦ライン」と呼ぶことにする。  「大洲松川浦ライン」を走ることはできたが、途中の駐車場も閉鎖され、工事中の所もあり、車を降りて海を見る事も出来なかった。
その理由は、後記します。
鵜の尾岬 大洲松川浦ライン 大洲松川浦ライン
釣り人 鵜の尾岬
   漁港の駐車場に車を停めて「鵜の尾岬」を眺めていると、釣り人が近づいてきた。

 手には見事な釣果/ ヒラメ? カレイ?・・・ これを持ち帰れば お父さんの㈱が上がるね・・・?
松川浦大橋  松川浦大橋です。 東日本大震災(2011.3.11)による津波により、砂嘴(さし)部分の市道に甚大な被害が発生したため以降通行止めとなり、2017年(平成29年)4月8日におよそ6年ぶりに一般車両の通行が再開されたという。 砂嘴とは、半島や岬の地形の入り込んだ部分に、沿岸流によって運ばれた砂礫されきが堆積たいせきして形成された「海中に細長く突き出た地形」。 しかし、今でも砂嘴部分の工事が続き、う回路を使わないと松川浦には行けない。

 本日の昼食は、「浜の道 松川浦」での「海鮮丼」と「漁師飯」です。
大変 美味しくいただきました!。
海鮮丼&漁師飯 メニュー 浜の駅 松川浦
 さて、松川浦に来た目的は、海の幸だけではない。
松川浦で海を見て、鵜の尾岬の灯台付近まで散策し、相馬の海を見る事でした。
しかし、この辺りは、余りにも多くの工事があり、浜の駅の「駅長」がいたので、
  鵜の尾岬に行くなど この辺りで 観光できないですか?
と、聞いてみたところ
  今年3月の大地震で、鵜の尾岬周辺は大きな被害があり、岬には行けない
と 教えてくれました。

相馬神社  相馬神社に行ってみました。

 明治12年(1879年) 相馬氏の始祖『師常(もろつね)』公を御祭神とし、中村城(馬陵城)本丸跡に創建されました。
師常公は、保延五年(1139年)に、千葉常胤(つねたね)の次子として生まれ、相馬中務太夫師國の家を継ぎました。
相馬氏は、『平将門』公の末裔であり、代々下総の相馬郡一帯を領していましたが、文治五年(1189年)源頼朝の将である父常胤に従って平泉攻めに加わり、軍功をあげたので恩賞として八幡大菩薩の旗一旗と相馬地方を賜りました。
師常公は、常胤の子七人の中でも特にすぐれ頼朝の信望も厚く、『鎌倉四天王』の一人に数えられていました。また、信仰心の厚い人であったので、死後鎌倉の人々には『相馬天皇』として祀られ、今もなお御崇敬されております。
常胤は、長男には千葉地方を継がせ、師常には流山地方と相馬地方を与えました。師常公から数えて六代目『重胤(しげたね)』公のとき、上杉影勝に通じ関ヶ原の役に参加しなかったことで、一時城地を没収されましたが『徳川家康』はその子『利胤(としたね)』を召し出して六万石の本領を安堵(相馬氏中村藩初代藩主)し、明治維新まで続きました。
 出典:相馬市観光協会HPより引用し要約

倒れる 相馬神社  さて、境内に行ってみるとご覧の通り・・・

まるで地震直後の様子?
散歩していた方に聞いた所、
 相馬は、2011年3月11日の「東北地方太平洋沖地震」の後も2回の大地震があり、地震としては今年(2022年)3月の地震が一番大きな被害を受けている。ホテル・旅館の設備被害、墓石は落ち・・・、民家は千軒ほどが解体待ちの状態・・・、もう直す気力もない者も出ている?

 この話を聞いて納得・・・、今回、松川浦で新鮮な魚を昼に頂き、観光し、ホテルに宿泊し、夕食も「海の幸」と考えていたが、そのホテル(旅館)の予約が出来なかった・・・ 満室/休館中・・・
確かに、今年3月の地震・・・私の勤務先にも福島に工場があり被災していた。
 帰宅して調べてみると・・・
東北地方太平洋沖地震以降の震度6弱以上の地震は、東北地方太平洋沖地震含めて29回発生し、震度6強以上は14回発生している。
下の表では、東北地方太平洋沖地震を「東日本」、熊本地震を「熊本」として表記した。

東北地方太平洋沖地震以降の震度6強以上の地震
月日時間震源地マグニチュード最大震度関連地震相馬市中村
2022/ 3/1623:36福島県沖M7.36強東日本・関連6強
2021/ 2/1323:07福島県沖M7.36強東日本・関連6強
2019/ 6/1822:22山形県沖M6.76強3
2018/ 9/ 6 3:07北海道胆振地方M6.771
2016/ 4/16 1:25熊本県熊本地方M7.37熊本・関連
2016/ 4/16 3:55熊本県阿蘇地方M5.86強熊本・関連
2016/ 4/15 3:46熊本県熊本地方M6.46強熊本・関連
2016/ 4/1421:26熊本県熊本地方M6.57熊本・本震
2011/ 4/ 723:32宮城県沖M7.26強東日本・関連5強
2011/ 3/1522:31静岡県東部M6.46強
2011/ 3/12 3:59長野県北部M6.76強2
2011/ 3/1115:15茨城県沖M7.66強東日本・関連4
2011/ 3/1114:46三陸沖M9.07東日本・本震6弱
2011/ 3/ 911:45三陸沖M7.35弱東日本・前震3

『2021年2月13日23時7分、福島県沖の深さ約55 kmで地震が発生した地震は、沈み込む太平洋プレートの内部で発生した地震であり、逆断層型の地震である。
東北地方沖を震源とする地震で震度6弱以上を観測したのは、2011年4月7日の宮城県沖の地震以来約10年ぶり、その後、福島県で震度6弱以上を観測したのは、の2011年4月12日の福島県中通りの地震以来それぞれ約10年ぶりであった。また、日本国内および東北地方で震度6弱以上を観測したのは、2019年6月18日の山形県沖の地震以来約1年8カ月ぶりであった。
本地震について気象庁は、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の余震であると推定している。

 そして、今年2022年3月16日23時36分ごろ、福島県沖の深さ57kmを震源として、マグネチュード7.4の地震が発生し、宮城県登米市・蔵王町と福島県相馬市・南相馬市・国見町で最大震度6強を観測した。
この地震により、3人が死亡(うち災害関連死が1人)・247人が負傷し、5万棟近くの住家が被害を受けた。東北新幹線では営業中の車両が脱線事故を起こすなど、甚大な被害が発生した。
福島県沖は地震活動が活発であり、1年前の2021年2月13日の地震の地震活動域は、この地震活動域の南側に隣接している。』
  出典:Wikipediaより抜粋編集

このように、2011年3月の三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震で被災し、修理・修復・・・
2021年2月の福島県沖地震で被災し、修理・修復しとて思ったら
2022年3月の福島県沖地震で被災・・・
直しても直しても/修復しても修復しても 被災する/壊れる・・・ 相馬市(中村地区)での被害は、散歩の方の話では、『相馬市内には約1千棟の危険家屋(解体待ち)がある』とのことでした。


 相馬神社(相馬中村城址)へ右側から入る道があり、「赤橋」を渡ってみました。
赤橋 中村城  中村城の歴史は古く、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。
南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。
 相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中、1563年(永禄6年)に相馬隆胤(たかたね)が、本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。
 関ヶ原の戦いから11年後の1611年(慶長16年)、盛胤の孫である利胤(としたね)は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石の政府となった。
1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃城となった。
  出典:Wikipedia より 要約


相馬中村神社  さて、正面に位置するのは先程の相馬神社・・・、その左には「相馬中村神社」があった。

 相馬中村神社の起源は、相馬氏の始祖である平将門が承平年間(931年-937年)に下総国猿島郡に妙見社を建立したことに始まるといわれる。相馬氏の相馬郡下向に伴い建立された。戦国時代の16世紀後半には、中村城が相馬氏の北の居城となり、相馬隆胤(たかたね)などが中村城主となった。
1600年の関ヶ原の戦いの結果として相馬氏は改易されたが、1611年に旧領への復帰を果たして中村藩を立てた。この時、中村藩の初代藩主となった相馬利胤(としたね)が、1611年に中村城内の南西に相馬氏の守護社である妙見社を建立したのが、現在の相馬中村神社の起源である。
現在の社殿は寛永20年(1643年)に中村藩2代藩主相馬義胤(よしたね)により建立され、国の重要文化財に指定されている。
 明治時代に入って廃仏毀釈により本尊の妙見菩薩が廃棄され、相馬中村神社と改称した。
  出典:Wikipediaより要約
場所 馬追い
 相馬野馬追の出陣式は、この相馬中村神社で行われる。

写真の位置で行われるようです。
本殿 鳥居  現在の本殿・幣殿・拝殿は、寛永20年(1643年)、18代藩主相馬義胤(よしたね)によって建立され、相馬地方の代表的な古建築として「国の重要文化財」に指定されています。
用材として欅をふんだんに使った権現造りで、本殿及び拝殿正面の蟇股と呼ばれる部材は神社由緒を象徴するように馬の彫刻が施されています。現在建物は白木造りの様相を呈していますが、本殿は本来、木部全体に漆塗りされておりました。建立後三百五十年という歳月により建物は真の姿を隠しておりますが、内部に施された漆塗り、彩色はよく残り当時の装飾美を今に伝えています。現在の社殿は、ほぼ20年ごとに都合10回の修理を重ねており、また、平成29年から大修理が行われ、屋根も創建当時のこけら葺に改修されました。
  出典:相馬観光ガイド から 要約
石 石
「相馬藩士/門馬家元祖/門馬平左衛門金光之神霊」なるものがあった。

帰宅して調べたが、相馬家には「門馬」なる家臣はいたようだが、「平左衛門金光」に該当する記事は見つからなかった。
親子杉 親子杉  中村神社の親子スギ

推定樹齢600年。幹回り約6.5m。

2本の太い木の根元は1本になっていることから「親子スギ」と名付けられ、現在、相馬中村神社の御神木となり信仰を集めています。

相馬市の指定天然記念物
親子杉 親子杉 親子杉  600年の疲れ?からか? 二本の茶色のコンクリート柱が、親子杉を支えています。
この支えがないと、倒れてしまうのかも・・・

 この続きは、後編に続く・・・

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