Kaakaの世界
(ミニ)トレッキング/栃木県・三毳山(みかもやま) 南口から編(2009.11.29)
東口からの様子は、東口編でご覧下さい。
三毳山(みかもやま)は、関東平野の北端に位置し、栃木県佐野市・岩舟町・藤岡町にまたがる山で「花の百名山」としても知られている。南から中岳(209.9m)、最高峰の青竜ヶ岳(229m)、名前不明の160.5mと南北約3.5kmにわたって連なる細長い山を三毳山と呼んでいるようです。
三毳山の一部は栃木県最大の都市型公園みかも山公園となっており、山麓にはみかも山公園東口広場、みかも山公園西口広場、みかも山公園南口広場などが整備されて市民の憩いの場となっている。また、山の北側にカタクリの群生地があり、「かたくりの里」と呼ばれている。山麓からは何本かのハイキングコースがあるほか、東口・西口・南口の各広場からはフラワートレインが運行されているので、これを利用して登ることもできる。
万葉集に詠み人知らずとして次のように歌われている。
下毛野 しもつけの ”下野の
三毳の山の みかものやまの 三毳山に生えている
小楢のす こならのす コナラの木のように
ま麗し児ろは まぐわしころは かわいらしい娘は
誰が笥か持たむ だがけかもたむ いったい誰の妻になるのだろ”
今回は、南入口から入り、駐車場〜 七曲坂〜 山頂中継広場〜 三毳神社〜 中岳〜 山頂広場〜 富士見台〜 冒険砦〜 わんぱく広場〜 駐車場 と2時間のミニトレッキングをしてきました。
1. 出発:2009年11月29日 午後12時半頃過ぎ 〜 南口広場駐車場到着:1時15分
冬季の足慣らしも必要と、身近な場所として インターネットで 三毳山 を探しました。
デジカメが水没のため使用できず、今回は携帯電話に付属するデジカメでの撮影です。
画質が劣るのは ご了承 下さい。
2. 三毳山の名石
今日は、南口広場駐車場から中岳を目指して登ることにした。案内図によると計13個?の名石があるらしく、登り始めるとすぐに「2 硯石」「6 蝋燭石」の看板がありました。
しかし、「硯石」の看板を見ると、『三毳山七石』との表記もあり、調べてみたが詳細不明。
以後は、看板の通り紹介します。
3. 三毳神社(奥社)〜 蝋燭岩〜 中岳山頂
三毳山南麓にある三毳神社(奥社)は、日本神話に登場する星の神である天津甕星(あまつみかぼし)(別名「天香香背男(あめのかがせお)」を祀(まつ)ったものだそうです。
だれが想像して名付けたか「蝋燭岩」(ろうそくいわ)がありました。どの位置から見ると最も蝋燭に見えるのか? いやっ? 蝋燭の炎に見えるのか? 想像しながら写真にしましたが、皆様はどう見えますか?
中岳(209.9m)に到着しましたが、山頂である標識がありませんでした。辛うじて、写真には写っていませんが、Kaakaの右手前2m程の位置に 2等三角点 があるのが確認できました。
4. 2つの犬石
最初に見たのは、藤岡町側の犬石です。看板には「北から見ると犬が伏した形にみえる」とありましたが、どうでしょうか? この写真で そう見えますかね?・・・
次に現れたのが、佐野市側の犬石でした。
石の上にいる者が 現在の入国管理局に相当する江戸時代などの関所役人に見えたら 正解? です。
ちょっと長くなりますが、調べてみました。寄せ集めの編集です・・・間違いは 御容赦下さい。
日本では、大化の改新後の7世紀後半(飛鳥時代後期)から10世紀ごろまでを「律令時代」といい、古代、律令制に基づいて国家が人民を支配していました。
その当時、古代7道という官製道路があったそうです。
東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道
その中の一つに 本州の内陸側を東西に横断する道路として 東山道(とうさんどう、とうせんどう、やまのみち) が三毳山の中間を通っていたそうです。
そして、ここ三毳山には「三毳の関」という関跡があったという伝承が残っており、三毳の関の役人(威奴(いぬ))がこの石の上で往来する人々を見張っていたので威奴石とよばれていて、それが犬石に転じたものといわれているそうです。
ここで、KaakaとChanは 疑問 を感じました。”なんで山の麓を通らず、わざわざ山越えするのかな?・・・、ちょっと迂回すればいいのに・・・。”
しかし、家に帰りネットで調べると、納得する一説がありましたので紹介します。
一つは現在の地形で判断していること。必ずしも簡単に迂回ができるとは限らないのだ。
現に三毳山の西は渡良瀬川や利根川に通じる広大な沼地が広がっていた。
それが干拓されたのは近年のことである。
二つに古代律令国家の官道は、現代では想像を絶するほどの高規格道路だということだ。
まず、国府間を直線で結ぶ理想を掲げた高速弾丸道路なのだ。駅家(うまや)は30里(16キロ)間隔であり、
道幅はふつう10mを越え、さらに両側に排水溝まで備えている。
ふつうの山や谷だったらずんずん突っ切って造られている。
だとすれば、南北に延びる三毳山を東西に横切る為に、標高100mくらいの峠道を通すなんてどうってことはない。
むしろ、関所としては理想的な位置だったかも知れない。
引用:「塾長の徒然草」の"2008.11.14 Friday"より
5. 天狗岩〜 富士見台
都市型公園?というだけあって、歩くのが苦手な方には フラワートレイン が運行されています。大勢の方が乗っていました。
「謙信の鞍掛石(腰掛石)・天狗岩」の看板がありましたが、謙信の鞍掛石を見つけられませんでした。
天狗岩は、相模の国 最乗寺(曹洞宗)の守護神 道了天狗(どうりょうてんぐ)を祀ったものです。携帯カメラでは光の関係からか? 上手く撮れませんでした。
富士見台からは、南南東に遠くは東京、南に古河市/谷中湖、更に右奥(南西)には富士山が見えるそうです。谷中湖は、微かに見えましたが、富士山は見えませんでした。
更に振り返ってみると、佐野市方面が見えました。
6. 冒険砦〜 夫婦岩〜 わんぱく広場
冒険砦を過ぎると 夫婦岩 がありました。
看板に寄れば 『享和2年(1802)、市右衛門・登与の夫婦(出家して自歓(じかん)・妙心(みょうしん)と改名)が寄付を集めて、越名沼に無料の渡舟(とせん)を始めた。二人の姿をかたどる。』とありましたが、「越名沼」は、何処にあるのと 疑問を持ち調べてみました。
すると、大川圭吾氏が公開する「秘密の部屋」のメニュー「みかも新聞」の中に「祖母の語る越名沼」という記事を見つけました。それによると、
『佐野市の東端に美しい山容を見せて連なる三毳山があります。その西のふもとには、大きな水面が広がっていました。それは後年「阿曽沼」そして「越名沼」と呼ばれた沼です。祖母が生まれた明治四十年の地図には、はっきりと越名沼が描かれています。
祖母の話の中に出てくる築道(つきみち)が出来たのが明治二十四年で、その土は三毳山から運ばれたそうです。その後、何回かかさ上げされ、現在の道になりました。
大正時代に食料増産の為に干拓の話がでました。しかし、実際の干拓事業が始まったのは、昭和に入ってからの事で、戦争などの理由により中断されながら、結局すべての工事が終了したのは昭和四十年の十一月でした。
しかし、皮肉にも昭和四十五年に「米が余る、作るな」と言う生産制限減反政策が出され現在に至っています。』
とのことで、これらから推測すると、右写真の 田んぼ の辺りが 「越名沼」 だったようです。
詳細は、大川圭吾氏の「祖母の語る越名沼」』で確認してください。
7. 下山〜 三毳庭園
下山道には、これまでにない 紅葉 が見られました。
南口駐車場に着くと、その東側には「三毳庭園」があり、池や藤棚があり公園南口の憩いの場となっています。
庭園の 紅葉 を撮影しました。
みかも山公園のHPによれば、
『・・・前略・・・、カタクリ・アズマイチゲ・ニリンソウなどの山野草が自生し、花の百名山にも選定されています。また、園内はコナラやクヌギといった広葉樹林に囲まれ、大変豊かな自然を有しており、春にはサクラやヤマツツジで彩られ、夏にはすがすがしい深緑、秋には鮮やかな紅葉と四季折々に表情を変化させます。・・・後略・・・。』とあり、花の時期に訪れたいところです。
私達は、冬場の足慣らしを兼ねて 残る「東入口」「西入口」からも 冬季に訪れる予定です。