Kaakaの世界/トレッキング&ハイキング&旅 編
【東京都西多摩郡檜原村○○番地】
平成20年(2008)3月20日、東京都唯一の『村』(島を除く)、『ひのはらむら』のあるお宅に、お彼岸のお線香上げに行って来ました。
事前に、人口(約3千人弱)・村役場職員数(約70人)・特産物(ジャガイモ、コンニャク、ワサビ)・・・などを調べ、初めてのお宅に行って来ましたが、この村は明治20年代初頭は「神奈川県」であったことと、住所が前記『檜原村○○番地』にもあるように、俗に言う『字』『小字』などがなく、『檜原村』の次に番地があることに驚きました。
この村の正式名称は「村の次に番地」だそうでよ。
そして、お宅に着き、当主(80歳前半)から昔話を聞くと、色々なことがわかりましたので、皆様に檜原村の今昔物語?を紹介します。 写真提供:御当主様
1)古くから住んでいる方達の家ほど、日当たりの悪い場所に家が立っているという。
それは、昔も今も米はほとんど取れず、日当たりの良い場所は『わずかな畑』として確保し、
人々は日陰に住まいを建てたためという。
2)都道(とどう、県道と同じ意味の東京都の道)は庭として使用し、自分の別の土地が都道となっている。
私達が車を停めた庭は、登記上は都道とのこと。その代わり、提供した別の土地に実際に車が走る道ができており、
その都道はこの家の当主が税金を納めている。・・なんかヘン・・?
3)明治末期〜大正〜昭和初期の製材所
右の写真は、檜原村に大正初期頃に
あった製材所の全景です。
そして、中央の写真は「製材所正門」で、
正門を入るとそこは作業場です。
さて、当時も製材のためにマルノコを用いて
いたらしいが、その動力は?
なんと、動力は『水車』だったらしく、右の写真のように秋川の流れを
堰き止め、そして写真に写っているように左側に川の流れを集めて
その上に製材所を作lり 水車 を回していたとか・・?
その後、昭和になって自費で電気を引いたらしい・・?
そして、そんな時代の後、馬車と自動車による運搬風景が見られ
たのですが、その他にも『イカダ』も利用したとのことです。