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Kaakaの世界/お出かけ
結城城跡公園 & 聰敏神社 の桜 (2018.03.31)

結城城址公園 & 聰敏神社 の桜

 今日の午前中は Kubotaの管理機(小型耕運機) 陽菜Smile TRS600を購入して初めての畑作業をしました。
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 午後、結城城跡歴史公園の桜を見てきました。桜祭りが来週開催されるという市内のお知らせがあったので、その前にと思って・・・

 以下は、「Wikipedia」より転載。

 結城城は茨城県結城市結城にあった日本の城。室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。

 小山下野大掾政光の四男朝光が、志田義広の乱制圧の功により結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりである。
その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、鎌倉幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった
・・・ 中略 ・・・
小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。
・・・ 中略 ・・・
元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。

戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。


 さて、「水野家顕彰碑」なるものがありました。
顕彰碑(けんしょうひ)とは、市民などが国や行政の指示によらず、自主的に世界、或いは国や社会、地域の発展に功績を残した歴史的な人物や功労者の功績を讃え、社会に広め末永く語り継ぐするために建てた碑です。
顕彰碑 桜 桜  公園の北西の角に、「結城合戦タイムカプセル埋設記念之碑」が建っていました。
結城合戦タイムカプセル 結城合戦タイムカプセル 結城合戦タイムカプセル 結城合戦から540年経った9回目の辛酉の年、1981年4月12日に慰霊祭が行われ、その記念にタイムカプセルを埋設したらしい。
2041年辛酉4月16日に掘り出すと書かれていました。その時まで 私は生きているだろうか?

 みかつきはし(三日月橋)です。 
鎌倉幕府の有力者でもあった前記の結城朝光の財宝が、代々結城家の当主に受け継がれ、第17代当主 結城晴朝(はるとも)の時代、当時の覇者:徳川家康による財宝没収からのがれるために、晴朝は旧結城領のどこかに財宝を埋蔵して隠したかもしれないというのが日本三大埋蔵金の一つ“結城晴朝の黄金伝説”です。
みかつきはし みかつきはし  1918年(大正6年)、貴族院議員で子爵・水野直(みずのなおし・旧結城藩主水野家の子孫)が約一年間、結城城の周辺を掘りまくったそうで、当時、埋蔵金探しで旧結城町は賑わい、5千軒に紅白餅一重ねずつが配られたという。
埋蔵金は見つからず、城の濠の名残りに架かるこの橋は、埋蔵金を探すために掘り返した跡だという話もあるようです。
「みかつきはし」と書かれた反対側の親柱には「大正六年十二月吉日竣工」とこの橋が完成した日付が付いています。
2017年12月 2017年12月
 さて、右の写真は昨年2017年12月29日の みかつきはし です。
年が明け、春になったら桜咲く中の みかつきはしの写真 を撮ろうと決めていました。
2018年3月 2018年3月  右の写真は 今日2018年3月31日の様子です。
桜の木が3mほど上で伐採されていました。
最近のこの市内の木は、いろいろなところで枝が切られています。
住民からのいろいろな苦情があり伐採されているのだろうか??

 桜咲くみかつきはしの写真が撮れなくて残念です。
聰敏神社 聰敏神社  さて、公園の西には、聰敏神社(そうびんじんじゃ)があった。
水野氏初代日向守勝成(かつなり 1564〜1651)は徳川家康公の従兄弟で、三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て徳川幕府成立時期の武功によって、元和6年、備後福山藩(10万石)の初代藩主となり、慶安4年・88歳で他界すると、生前の業績を偲び聡敏大明神と称せられたという。
 福山藩水野家はその後廃絶するが、結城に1万8千石をもって再興され、福山より分霊されたのが結城聰敏神社だという。
小山 小山
 その後小山方面にドライブ・・・ 桜のアーケードの道を通りました。

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