KaakaChan's World (Kaakaの世界/トレッキング/佐野市・アド山(2017.04.23) _ 前編)
2013年4月に 中国江蘇省連雲港市の現地法人に出向し、2017年3月に日本に帰任しました。
と 言う訳で また トレッキングの再開です。
行き先をどこにするか・・・ 中国に行く前に予約した「栃木の山150」(随想舎/栃木県勤労者山岳連盟 宇都宮ハイキングクラブ編 1800円+税別)、手元に届いたのは Chanの中国赴任後だったので使うのは今回が初めてです。
行き先は、栃木県佐野市(旧葛生町)のアド山(あどやま)と決めました。
〇 2017年4月23日(日)
まず、佐野市仙波町の金蔵院(こんぞういん)を目指したが、これが見つからない・・・
やっと、仙波(せんば)の交差点の傍らにある「常盤小学校」への案内標識の横に「アド山城跡」への木柱を見つけた。
標識に従い 小学校を左手に 狭いが道なりに進むと由緒ありそうな金蔵院の広い駐車場前に到着した。
カーナビでは「佐野市仙波町463 TEL 0283-85-3067」で見つかるかも?
看板によれば 真言宗智山派の清瀧山金蔵院聖法寺が正式名称のようだ。
ネットで調べると、佐野市内には「金蔵院」がもう一つ、「真言宗豊山派金蔵院」があるようです(栃木県佐野市越名町426)。
金蔵院駐車場入口には「アド山城跡1.8km」の看板があり、そこから山の上のほうに向かって歩くと「アド山城跡1.7km」の看板が出てくる(左下&中央写真)。
右に行くと金蔵院の山門に・・・ アド山は、矢印のほうに数メートル歩いてすぐに右に進路を変えると、獣柵が見えてきます。
看板『阿土山入口を開けたら帰り必らず閉めて下さい』という、チョット表現に間違いのある看板に従い「阿土山入口を開けて、中に入ったら閉めて」来ました。
あれ、「アド山」が「阿土山」になっている?
踏み跡のあるコースを登っていく・・・
さて、先程の柵は何のため?
金蔵院への道がわからないので、下で道を聞いたとき 「山には 鹿とイノシシがいるから 気を付けてね・・・」と言われたことを思いだした。
さて、この後に 出会うのだろうか?
10時 小さな峰にたどり着く。
この山を登っていて赤い石が多いことに気がついた。
この地/葛生(くずう)は石灰岩の山が多く、アド山の周囲の山々もセメントの材料として山肌が削られているものが多い中、このアド山は削られていない。
ネットで調べると、アド山は赤い石という特異なアド山層という堆積岩であるためにセメントの材料になれないことが原因のようです。
※ 1950年栃木県葛生町(現・佐野市)の石灰岩地帯で発見された化石人骨は、約50万年前の旧石器時代の人骨と考えられ、「葛生原人」と名付けられたが、2001年(平成13)に最新の放射性炭素による年代測定法により、15世紀頃の骨であることが判明した。
二つの堀切を過ぎ、石垣の跡を過ぎ堀切一つを過ぎると古い石祠が現れる。その先に見えるのが「アド山山頂」です。
10時15分 山頂(371.1m)に到着。
阿土山城は、「栃木の山150」には『天慶年間(931〜947)、安戸太郎純門が居住していて、天慶の乱(てんぎょうのらん 939年)のとき将門方に属したといわれている』と書かれていた。
またネットで調べると、『元々は阿土山と書くらしい。おそらく明治期に陸軍が初めて全国の測量地図を完成させた時に、漢字表記がわからなくて仮にカタカナで記載したものがそのまま残ったのであろう。地域的には唐沢山城を本拠とする佐野氏の勢力圏内であり、佐野氏の支城であったと考えられる。享徳の乱(きょうとくのらん 1455年)に際して、上杉方であった足利長尾氏に攻められた際に佐野氏が立て籠もったらしい。その他の歴史は不明である。』とあった。「安戸山城」と書くと紹介しているサイトもある。
山頂からは南東方向がひらけ、山並みが広がり素晴らしい眺めだ。 こんなところにあった山城? 物見櫓(やぐら)的なものだったのだろうか?
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