Kaakaの世界/トレッキング
松本城天守・大王わさび農園と美ヶ原高原(2016.9.29-30) _ 前編
〇 2016年9月29日(木曜)
Kaakaが 中国の国慶節に合わせて一時帰国中のChanを連れ立って 長野県への旅に出かけることにしました。
しかし、今日は生憎の小雨・・・・ 美ヶ原を目指すことを諦めて 国宝 松本城天守へ・・・ 昼 松本城南口左側のソバ屋で昼食・・・ 鴨南蛮 と 冷やしおろしキノコソバ・・・ 門前ということか 少々お高い??
松本城は戦国時代の永正元年(1504年)に島立氏が造ったと言われている深志城が前身です。
その後、小笠原氏、木曽氏、小笠原氏(この時に松本城と改める)と城主が変わり、徳川家康の関東移封にともなって小笠原秀政が下総へ移ることになり、天正18年(1590年)に松本を離れ、このあと、豊臣秀吉の命を受けた石川数正が松本へ入ってきます。
天守は文禄2年〜3年(1953〜4年)に建築されたと考えられています。
江戸時代以降の松本の城主は石川氏(改易・御家断絶)、小笠原氏(大坂夏の陣で戦死)、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏(改易)、《幕府直轄》、再び戸田氏と6家23人です。
現存する5重6階の木造天守は日本最古で、戦うための黒い堅固な天守は国宝に指定されています。
市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれているが、文献上には烏城という表記は一切ないという。
ウィキペディアによれば
『明治維新後、1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。』
という。
二十六夜神伝説(松本城を守る神様/6階)
『戸田康長が松本城に入ってむかえた初めての新年、元和4(一六一八)年閏うるう正月26日の夜のこと。持筒頭の川井八郎三郎という武士が、本丸御殿で夜中の城の守りをしていました。・・・ 中略 ・・・。八郎三郎は、このことをお殿様の康長に伝えました。康長は、天守六階の梁の上に二十六夜様をおまつりし、いわれたとおり、2月から毎月26日にはおもちをそなえて、おまつりしました。
享保12(一七二七)年、本丸御殿が火事にあったとき、天守が焼けなかったのは二十六夜様のおかげだと語り伝えられています。』
天守内から東を見る(左側写真)。
南を見る(左側写真)。
天守内から西を見る(左側写真)。
北を見る(左側写真)。
太鼓門は文禄4年(1955年)頃に築かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源とした大太鼓楼が置かれている。
現在のものは平成11年に復元された。
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